分譲マンション販売の商談で経験したエピソード
モデルルームに来場したひとりの女性
これは、東京で仕事をしていた時に出会ったお客様と当時の営業部長の話。
場所は、都内のとある駅前の新築タワーマンション。
僕は、完成在庫物件の販売営業をしていました。
入社して4年目の26歳の夏の暑い日のことです。
女性のお客さんがひとりで来場されました。
左手薬指には指輪。既婚の方です。年齢は35歳前後でしょうか?
「今日はご主人様はお仕事なんですか?」
「ええ。いつも主人は帰りが遅くて、休みもほとんどないんです。」
「えー。それは大変ですね。そしたら、住宅購入の話はなかなかできないんじゃないですか?」
「実は、1年ほど前に、あるマンションを買おうとしたんです。
でもその時は、主人の時間がなかなか取れなくて。
そうしてる間に結局、他の人で決まってしまって。」
「そのあと、主人はマンションの購入に関しては、
『ほとんど家にいるのはお前なんだからお前がいいと思う物件で俺はいいと思っているよ。』
って言ってくれたんです。」
「でも、今度は私のほうがなんかピンとくる物件がなくて。
というか、モデルルームだけだとなんか不安になっちゃうんです。
だから、やっぱり購入は無理なのかなぁ。ってずっとあきらめてたんですよ。
でも、今朝チラシが入ってて、このマンションは実際の建物が見れるんだと思って。」
「そうだったんですね。興味を持ってくださって、ありがとうございます。」
「ちなみに、ご主人様はどんなお仕事されてるんですか?」
「住宅メーカーの営業です。今は、埼玉の支店に勤務しています。」
「僕と同じ仕事ですね。ご主人の大変さは少なからず分かる気がします。」
「ところで、ご主人の会社で一戸建てを建てることは考えられてないんですか?」
「一戸建ては、主人がほとんど家にいないので、やっぱり怖いですし。
それに転勤もあるんで、賃貸に出しやすいのはやっぱりマンションのほうだよねって、
前回の時に主人とも話しはしたんです。」
住宅メーカー(注文住宅)の営業マンは、マンション販売の営業と比べて、売る場所も
売るものも決まっていないので、僕らよりももっと大変です。
お客様との打ち合わせを何度も何度もお客様の仕事が終わってから行います。
なので、帰りは12時過ぎになるのが当たり前なのです。
モデルルームは3LDK。駅前物件にもかかわらず、駅前広場が南側にあるので、駅から近くて
日当たりが良いのが売り。奥様も気に入ってくださっている様子でした。
「実は、そろそろ子供も欲しくて。やっぱり、主人が帰りも遅くて、休みも少ないので、
こんな広くて綺麗な部屋に一人で過ごすのは寂しいですもんね。」
そう笑顔で話されながら、奥様は何度もモデルルームをじっくり見学してました。
僕がいることを忘れてるんじゃないかってくらいに。
30分近くも、まだ細かく見ている奥様に、僕は思い切って聞いてみました。
「物件は気に入っていただけました?」
「はい。もの凄く!前回のマンションをあきらめといて良かったって思うくらいです。」
「それで実は、相談があるんですが・・」
と、奥様は急に神妙な面持ちで僕に切り出しました。
「さっき、お話したとおり、主人は物件選びは私に任せてくれているんです。
でも、住宅メーカー勤めで営業職ですから、
『構造とかの安全性と、支払いのことだけは俺が確認してから買うようにしよう。』
って言われてるんです。」
「ご主人がおっしゃるのは当然の話だと思います。ご主人にも見てもらいましょう。」
と僕が言うのと、ほぼ同時に奥様は携帯電話でご主人に連絡をいれてました。
まさかの再アポイント
電話口でご主人へ物件の説明をする奥様の横顔は笑顔でとても嬉しそうでした。
ご主人が「そうか。うんうん。」と優しく答えてくれているのが想像できます。
でも、ご主人がマンションを見学に来れる日程調整の話になると、奥様の顔が急に
曇りだし始めました。
「それは、無理だわよ。」
「お話し中にすみません。どうしたんですか?」
と、僕が電話をさえぎって奥様に話しかけると、
「主人が、お前がそんなに気に入っているなら、前回みたいにならないように早い方がいい。
今日の仕事帰りに行く。って言ってくれてるんですけど、今日は商談があるので、
急いでも夜の12時頃だっていうんです。そんなの無理ですよね?」
正直、僕は一瞬絶句してしまいました。
でも、あんなに幸せそうにモデルルームを見学していた奥様の笑顔を見たら、
そしてご主人が奥様を思ってのことだと思うと、断るわけにはいきません。
「分かりました。お待ちします。」
と、笑顔で返事してしまいました。
その返事を聞いて、「無理を聞いてくれて、ほんとありがとうございます。」と、
奥様は、何度も僕におじぎをして、嬉しそうに一旦マンションを後にしました。
僕はこのことを、営業部長へちょっとためらいながら報告しました。
なぜなら、商談の時は、必ずスタートと途中経過、そして結果報告の電話をしないと
いけないことになっているからです。
こんな遅い時間の商談は、現場の先輩からも聞いたことないと言われました。
ところが、今日の経緯の説明を聞いた部長は、
「おお、今日の今日でご主人の商談まで取り付けたなんて凄いじゃないか!
遅い時間まで商談するからには、必ず纏めろよ!」
といって発破を掛けてくれたのです。
普通じゃ考えられない
そして、夜。同じ現場にいる先輩や上司は、部長の指示で先に帰ることになり、
僕は1人でマンションでご夫婦の来場を待つことになりました。
約束の12時より15分過ぎても、まだ二人は来ません。
まさか、キャンセル?とよぎった矢先に、二人が慌てた様子で来場されました。
「すみません。商談が延びてしまって・・。こんな夜遅くにありがとうございます。」
さぁ、真夜中の商談スタートです!
正直、待ちくたびれていた僕は、やっとのお客さんの来場で急ににスイッチが入ったのか、
お客さんの元へ駆け出していきました。
大事な商談スタートの報告も忘れて・・・
モデルルームは、僕の説明がいらないほど、奥様がご主人に丁寧に案内してくれました。
完成済みで、しかもタワーマンションなので、共用部分もかなり充実してます。
3人は一旦外に出て、集会室やゴミ置き場・駐車場・駐輪場・入居者専用広場など、
夜中にマンションの敷地内を見て歩き回りました。
「ほとんど電気消えてるね(笑)。」と、奥さんがマンションを見上げながらいうと、
「当たり前だろ。」ってご主人も苦笑いしてました。
そして、ようやく商談室で商談を開始することに・・・
構造の説明や資金計画の提案書をご主人に提示しました。
既に時計の針は2時を越えています。
資金計画書とじっくり見たあと、ご主人は腕時計をちらっと見て僕に一言。
「いやー。僕も同じ営業だから良く分かるけど、ほんと普通じゃ考えられないね?」
思わず僕も、「はい。僕も正直そう思います(笑)。」
「こんなに頑張ってくれてる田中さんに『もう少し考えさせてくれ。』なんて言える訳ないですよ。
これから、申込手続きをお願いしていいですか?」
横で奥様がほんとうに嬉しそうにご主人の左腕をギューっと掴んでいます。
「ありがとうございます。奥様にこんなに喜んでもらえて、ご主人を待った甲斐がありました。
お引渡しまで、スムーズにいくように一生懸命お手伝いさせていただきます。」
と、申込書類にその場でサインして頂く事になりました。
そして、二人がマンションを後にした時は、もう2時半を過ぎていました。
二人は寄り添いながら、エントランスホールから外へ出ました。
振り返り、真っ暗になったタワーマンションを見上げ、
「もうすぐ、ここが我が家になるんだね。」
と言っているかのような笑顔で目を合わせる二人の姿がとても印象的でした。
幸せそうな二人の後ろ姿を見送った僕は、暖かい気持ちとほっとしたのと同時に、
背筋がぞっとしてしまいました。
なぜなら、部長へ商談のスタートも途中経過も報告し忘れていたことを思い出したからです。
営業部長の忘れられない一言
(やばっ!でも、申込書も無事にもらえたし、こんな時間だからさすがにもう寝てるよな?
明日の報告でもいいよな?)
と一瞬思いましたが、着信が残ってるだけでも明日報告しやすくなるという、
よこしまな思いで電話はかけることにしました。もちろん、すぐに切るつもりで。
ところがです。
わずか1回のコールで「もしもし。田中か?」と、なんと部長が電話に出たんです!
あまりにびっくりした僕は、
おもわず「すみません。」と意味不明に謝っていました。
「なんだぁ?『すみません』てことは、決まらなかったのか?」
「いえ、部長がこの時間に電話に出られるとは思ってなかったので。」
「馬鹿、出るに決まってるだろ!それより、どうだったんだ?」
「はい。無事ご主人様にも納得いただいてお申込いただきました。」
「そうか!遅い時間まで、ほんとよく頑張ったな!詳しくは明日聞くから、タクシーで早く帰って寝ろ!」
「えっ!タクシー使っていいんですか?」
「当たり前だろ!どうやって帰るつもりだったんだ?」
「タクシーだと1万以上掛かるので、カプセルホテルにでも泊まろうかと。」
「仕事だったんだから、経費で出すに決まってるだろ!
奥さんも心配してるだろうからちゃんと帰れ!じゃあな、お疲れさん!」
と、あっという間のやりとりに、暫く僕は唖然としてしまいました。
でも、コール1回で電話で出てくれたってことは、部長はずっと僕からの報告を
寝ずに待ってくれていたのです。
そして、後日経理部の方からこんな話を聞きました。
12時を過ぎるような深夜の商談は前例がなかったらしく、タクシーの経費支出を部長が
経理部に掛け合って、承諾を取ってくれていたと。
もう15年も前のエピソードですが、今でもこのお客さんと営業部長のことは今でも忘れられません。
一度マンション購入をあきらめていたご夫婦の幸せそうな後ろ姿。
報告を忘れた僕をしかりもせずに、夜中までずっと携帯をそばにおいて待っていてくれた
営業部長の労いの一言、そしてタクシー帰宅の配慮。
とても、大変な仕事でしたが、今の僕の仕事観を作っています。
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